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子どもの行動を習慣付けすること、躾に関連して様々な場面に出くわします。

<あいさつ>
小学校などでは、校門や通学路の辻などに教員やPTAの役員などが立っていて、通学してくる子ども達に「おはようございます!」と声をかけ、子ども達も大きな声で「おはようございます!」と返事をする、という<あいさつ運動>なる光景がよく行われているようです。

清々しい光景として思われているようですが、はたしてそうなのでしょうか?
子ども達は、ただ反射的に<あいさつ>しているのではないでしょうか。
声をかけてくる大人とどんな関係なのでしょうか?
先生だったら知っている可能性は高いでしょう。[今日学校で一緒にいる、この先生の授業がある・・・・]
しかしPTAの役員だったら知らないかもしれません。知らない人から声をかけられてドギマギしてしまうかもしれません。

そもそも<あいさつ>とはなんでしょうか。
関係を持つ人同士がその関係を確認し、円滑にする、といった<目的>あるでしょう。
<あいさつ>は人間関係を確認し、円滑にするための<手段>の一つでしょう。
だから、知らない者同士、また関係を持ちそうもない者とは、目があったところで、あえて<あいさつ>を交わすことはないのです。
日常の大人の行動を思い起こしてみましょう。
朝通勤のため自宅近くのバス停でバスを待っています。そこには知り合いの近隣の人がいるでしょう。「おはようございます。いい天気ですね。」などと自然に<あいさつ>を交わすでしょう。近隣の人で、今後もなんらかの関係を持っていく人だから<あいさつ>を交わすのでしょう。バスに乗って、次々に見知らぬ人が乗ってきます。その人達とは<あいさつ>をしません。当たり前ですね。仮に<あいさつ>でもしたら怪訝な顔をされるのがオチです。

<あいさつ運動>なるものは、人間関係の確認、円滑さの構築という<目的>から外れて、手段である<あいさつ>が<目的化>しているように思えてなりません。日頃接していない大人からそのような運動を受ける子どもにとっては、声をかけられたら無条件に反応するという<判断停止>になるのではないでしょうか。

子ども達は強要されなくても、<知っている、関係を持つ者同士(大人も子どもも)で<あいさつ>は交わしているようです。言葉でないかもしれません。仕草や表情に<あいさつ>が現れています。

1日の保育の終わり。<さようなら、あしたもあそぼうね。>という<あいさつ>
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<あいさつ>以外にも<手段>が<目的>を離れ<目的化>しているような例がたくさんあるように思います。
また別の機会に。
台風24号通過で当地では前日夜から停電になりました。やっと本日の午後3時すぎに通電しました。

停電になると様々な影響があることを実感しました。
照明はもとより、テレビも映らなく、電話も繋がらなく、孤立した状態です。
家庭との連絡方法もなく、混乱を避けるため、開園しました。

電気のない園での生活でしたが、保育で電気に頼ることは少なっかたことも改めて実感したことでした。

園庭で<かけっこ>に興じたり
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絵のコーナーでは先日に行った<ドングリ拾い>の絵を描いたり
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小屋の周囲では子どもたちが集まって何やら<ごっこ>を行っているようです。
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年長児や年中児では最近頻繁におこっている<地震><台風>がきっかけになっているようです。
「地震があったから、安全なところに避難しましょう」とか
「台風がくるから、安全なところに避難しましょう」とか
「停電になっちゃいました」とか
を話題にして遊んでいるようです。
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そのうち話題は地震や台風からずれていき、そこにある石ころが<隕石>の話題になっていったようです。
子ども発想はどんどん変化していき、聞いている側も飽きません。
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子どもの<遊び>には電気はほとんど必要のないものですね。
人間としても感覚を基本として生活するには電気は本質的に必要なものではないのでしょう。
ただ電気があれば、副次的に便利に、効率よくなっていくでしょうが。

運動会(9月19日)では跳び箱を使った競技がありました、

年少児は跳び箱から飛び降りる。
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年中児は2台を腕立てで進む。
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年長児は開脚跳び越し。
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運動会が終わって、跳び箱の競技は終わりではありません!
その続きは?
腰ぐらいの高さ(3段、4段)の跳び箱から、胸のあたりの高さ(5段、6段)へ
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まず年長児
軽々と開脚跳び越しができる子どもが増えてきました。
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スカートを履いた女児も軽々と!
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年中児や年少児も、<憧れの>年長児のように跳び箱にとびつきます。
年中児です、
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年中児でも跳び越せる子どもも現れます。
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年少児です。まだ<よじ登る>ような仕草です。
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年長児の行動に刺激を受け、年中児や年少児も跳び箱に跳びついてきました。
教師が口を出す以前に、子どもたちの影響力は大きいものです。
子どもたちのそんな行動を大切にしたいものものです。
東京都美術館で開催中の<藤田嗣治展>に行ってきました。

東京美術学校の卒業作品、パリに渡ってからのキュビズムの典型的な絵、1920年代初頭に藤田が生み出した「素晴らしき乳白色」を用いた女性像、人物画、1930年代中南米への旅行を機に今までと異なる色彩豊かな絵、第2次大戦勃発を機に日本に戻っての戦争画、戦後フランスに居住を移し、カトリックに改宗しフランス国籍を取得した戦後の宗教画や子ども絵など、・・・・・

時代や社会的背景に影響を受け、変化していく藤田嗣治の絵の変化をまとまった形でたくさん見ることができて有意義なひと時でした。社会的背景に受け身だけではなく、主体的に関わっていくことで自己を形成していく姿を絵を通して垣間見ているようです。

藤田嗣治のように何十年間も渡る変化は壮大な<絵巻物>ですが、子どもにとって幼稚園の時代のたった3年間も<劇的な変化>の流れです。

子どもの絵は、
大人とは異なる<子どもの認識方法>、
時間、空間などの多次元にわたる事象を2次元の紙に記す大人とは異なる<表現の方法>、
子どもを取り巻く<大人から>もたらされる社会的影響
・・・・・
色々な要素が絡み合っています。

3年間の劇的な変化の典型的な例として<カタツムリの絵>を掲載します。

女児Eの年少時の絵
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女児Eの年中時の絵
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女児Eの年長時の絵
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女児Fの年少時の絵
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女児Fの年中時の絵
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女児Oの年少時の絵
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女児Oの年中時の絵
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女児Oの年長時の絵
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年少時には子ども独特の<写実性>が現れています。カタツムリの殻から触角2本がちょんと出ています。
年長時は大人社会が作り上げた「殻の下に胴体がある」横向きの<典型的カタツムリ像>へと変化しています。
年中時は子ども独特の写実性から典型的カタツムリ像への過度期を示しているようです。

絵では記録として残っているので変化がよくわかりますが、この変化に準じて3年間に身体の変化のみならず多方面に渡って大きく変化しているのでしょうね。

こちらも参照してください。
<子ども絵画について思うこと>
<形の表現ーカタツムリの表現の変化>

(話題はちょっとそれるのですが)
これら9枚の絵に<優劣>をつけることができるでしょうか?
仮に優劣をつけるとしたら、どんな基準を設定したらいいのでしょうか?
そんな基準は<子どもの観点からしたら>何もないことにすぐ気付くでしょう。
子どもの<絵のコンクール>なるものが子どもとは何ら関係ないことでおこなわれているのです。
日本のスポーツ界では不祥事が続いています。
監督、コーチなど指導者のパワハラ問題がいろいろな分野で生じているようです。
同じような状況がスポーツにとどまらず、学校環境でも起こっていると思われますが、いかがでしょうか。

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監督、コーチ、教師など指導する立場にある者が絶対的な立場にあり、指導される側には<人格>さえないような状況です。
以前の日本では<当たり前>のことだったかもしれません。

いろいろな原因があろうかと思いますが、
まず指導される側を一人の人間として見ていないのではないでしょうか。
指導する側にとっては指導される側と<同じ人として>の基盤に立っているという意識が欠如しているかもしれません。

学校、クラブ、など集団になると、集団が優先され、個人は集団を構成する<部品>と見なされるているようですね。
集団として<勝利>することが大事で、その目的のために<部品>を鍛え、ダメな<部品>は取り替える・・・・・

学校、クラブなどの集団の<勝利>は<指導者>の功績となり、<指導者>は自己の名誉のために邁進するようになっていく・・

まるで旧日本の軍隊のようです。

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教師は<教え>、生徒はそれを<習う>、こんな図式が昔から続いてきたのでしょう。
<教え><習う>といった2局面に分離できないのが本当の<教育活動>でしょう。
教師も生徒も互いに影響しあって<時間と場所>を共有しているのが教育活動でしょう。
そこでは教師も<習い>、生徒も<教え>ることも多々あるでしょう。

自分の学校生活でそのようなことを強く意識するようになったのは大学院に入ってからでした。
研究の場面においては、教師も学生も立場や地位など関係なく、<共同者>でした。

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幼稚園でも同じ、<教える>という立場でなく、幼稚園で<時間と場所>を園児と<共有>する<共同者>でありたいと願っています。
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テニスの全米オープンで優勝した大坂なおみさんとコーチの関係が大きく報道されていました。日本のスポーツ界のゴタゴタとは全く正反対。個人、人格が優先される関係、そこに勝利につながるものがあるのでしょうね。
プロフィール

m.k.masa

Author:m.k.masa
諸々の事柄に、なぜ?、どうして?という感覚をも持ち続けたい幼稚園園長です。
京大理学部卒、大学院修了
(うさぎ年です)

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