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毎年、ヒマワリの種を蒔いています。

今年も花を咲かせ始めました。
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この花壇に30粒ほどの種を蒔き、これまでに育ったのは8株のみ。
毎日、水遣りは行っていました。水遣り以外は何もしていません。
80%近くは発芽はしました。しかしここまでの<生存率>は8/30=27%。これが高いか、低いかはわかりません。
人間に例えて見ると大変低い生存率でしょう。

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8株の生育度合いもまちまちです。
このような大きな花を咲かせているものもあれば、ひょろひょろしたもの、様々です。

種としても<個体差>なのか、発芽して以降の後天的なものなのか、それらの複合であろうでしょうが、自然界は大変厳しいものですね。
週末台風が通過しました。

園庭には落ち葉、松ぼっくりが散乱しています。
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そこで登園してきた子供たちと落ち葉集めです。

どんな道具を使おうかな?

手で拾う?、ほうき?・・・・
もっと効率よく集めるには?
熊手はどうかな!
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初めて見る道具です。
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面白いようにどんどん葉っぱが集まります。
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熊手で落ち葉を集め、そのまま引張てきました。
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落ち葉の集積場所から遠い所では?
一輪車の出番です。
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以前は一輪車に砂を載せて運びましたが、
今度の荷物は落ち葉!
軽い!軽い!
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熊手で運んだり
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一輪車で運んだり
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いっぱい落ち葉が集まりました。

大人と違って、子どもたちには散乱した落ち葉の清掃をする、という意識はほとんどありません。
熊手や一輪車を使う動作そのものが興味のあることなのです。

大人は、何らかの動作をする場合、その目的だとか、目的のための手段だとかを思ってしまいます。
掃除をするために、熊手を使う、・・・・

子どもは、熊手を使う動作そのものに意味があるのです。
そして結果として、清掃になっている(大人が示す必要があります)

動作そのもの(感覚運動的な行為)が子どもの興味の対象です。
その動作の結果、意識しなかったあることにつながる。
このようなことを根本とするのが幼児教育の大切な方法ではないでしょうか。
このような例として
「泳ぐ鯉のぼり」をご覧ください。


連日の猛暑です。

木陰でも、風がないと暑い!
まして、陽のあたるところは地面からの照り返しもあり、もっと暑い!暑い!

そこで、子どもたちと水撒きです!

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洗面器、バケツ、ジョロ・・・・いろいろな容器に水を入れて

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園庭の地面が水で湿りました!

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少しは涼しくなったかな!

ひょっとしたことから始まるこんな経験、言葉や記号ではなく、身体を動かして体験するこんな経験、大切にしたいですね!
盆の頃、寺院では施餓鬼の法要が行われます。
盆には盆という言葉の由来となった<盂蘭盆経(餓鬼の世界に落ちた仏弟子、目連の母を救う話)>や餓鬼を救う話<救面然餓鬼陀羅尼神呪経>や<先祖供養、特に先祖がこの世に帰ってくる>などが混じり合い、なにやら混沌とした風習になっています。

しかし、ほとんどの日本人は<先祖がこの期間この世に帰ってくる>という風習として捉えているのでないでしょうか。
<迎え火>を焚いてお迎えをし、<送り火>を焚いてお送りする。送り火の代表的なものが京都の大文字をはじめとする五山送り火でしょう。

<救面然餓鬼陀羅尼神呪経>とそれに基づく施餓鬼の法要は命に思いをはせるいい機会である私は思います。
目連の母の話や先祖供養や先祖が帰ってくるなどと切り離して、<施餓鬼>単独で行った方が良いと思うのです。

<救面然餓鬼陀羅尼神呪経>とはこんなお話です。

阿難というお釈迦様の弟子がいました。真夜中、修行中の阿難のところに餓鬼があらわれました。餓鬼の様子は、息も絶え絶え、痩せ細り、喉は針の如く細く、髪は乱れ、手足の爪は伸びて、炎に包まれていました。そして阿難にこう告げました。

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「おまえは、三日後命が尽きて、餓鬼の中に生ずるだろう。」
阿難は恐れ驚いて、餓鬼に尋ねました。
 「三日後に死んで、餓鬼に生まれ変わるのは恐ろしい。どうすれば、いいのでしょう。」
餓鬼が答えました。
 「我々餓鬼はガンジス河の河原の砂の数ほど無数にいる。我々はいろいろな苦しみの中にいる。見ての通り、喉が針のように細く、飲んだり食べたりできないのが特に苦しい。我々に腹一杯飲んだり食べたりさせてくれ。そうすれば我々餓鬼も救われ、お前も死なずにすむ。」
 これを聞いて、無数の餓鬼に腹一杯飲んだり食べたりさせることはとても出来るわけではなく、阿難はますます恐怖の底に突き落とされました。そしてお釈迦様の処に行って、今起こった一部始終を述べ、助けを求めました。お釈迦様は阿難の恐怖と苦しみを察し、こう教え諭しました。
 「阿難よ、安心するがよい。私が前世の時、観音菩薩から『おまじない』を教えてもらった。この『おまじない』を唱えると、ほんの僅かな食物が無数の量に増え、また味も格別のものになる。この『おまじない』をお前に教えるから覚えなさい。そして用意出来るだけの食べ物を持ち、諸々の仏達に餓鬼を救うお願いをし、『おまじない』を唱えなさい。そうすれば無数の餓鬼であろうと、腹一杯飲んだり食べたりでき、餓鬼の状態から救われる。そしてお前も死んで餓鬼にならずにすむ。」

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 お釈迦様から教えられたように、阿難は行ないました。餓鬼達は救われ、阿難も救われました。

<施餓鬼>の供養では

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棚を設け、そこに米や水などや諸々の食物を並べます。施餓鬼供養で読むお経は、餓鬼を救い、棚に並べた食物を無限に増やす、・・・といった内容です。参加者は棚に設けられた米と水(諸々の食物の代表として)を振りまきます。この行為は、参加者お一人お一人がそれぞれ、餓鬼に食物、水を施して、哀れな存在である餓鬼を救っていることを意味します。

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餓鬼とはなんでしょうか? 
「生命あるもの」は死後、生き様によって六つの世界[地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天]に生まれ変わると考えられていました。地獄とならんで餓鬼は良い世界ではありません。人間としての生命を終えた時、私達は何らかの形式で亡き人を死後安心できる世界へ行けるようにお願いしているはずです(宗教の違いにかかわらず、また宗教にこだわらず、一般的な言い方で言えば、「天国」)。日本では亡き人のほとんどは何らかの形式で送られているので、死後「餓鬼や地獄」などの世界とは縁がないはずです。しかし不幸なことに、孤独死などという事例や、世界に目をむければ、戦争、紛争、飢餓などで命を落とし、まともに死を弔ってもらわなかった人々が多くいます。ある意味では、それらの方々が「餓鬼」という存在かもしれません。

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私達は一人で生きているわけではありません。思いめぐらせてみれば、食べ物一つとっても、世界の何処かの見も知らぬ人々が生産し、運送し、加工し・・の結果、口にすることが出来るのです。広く世界中に、このような繋がりが広がっています。思いを巡らせば、「餓鬼」は私達と無縁な存在ではないでしょう。

また人間だけの世界にとどまらす、「生命あるもの」全てに拡大したらどうでしょうか。食物連鎖のことを考えてみれば、人間は他の生命を頂いて生きているのです。人間以外の生命が命を終える時、まともに弔らわれているのでしょうか。ほとんどはそうではありませんね。それらの存在も「餓鬼」といえるかもしれません。

「施餓鬼の供養」ということを通して、命を落とした際に、その「命の尊さ」を弔われなかった存在(人、人以外の生命あるもの)に思いをめぐらせる機会だと思います。そして人間を含めた全ての「生命あるもの」に対して、その尊厳に気づくことにつながると思います。
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年長児にはそんな意識のきっかけになればと、毎年本堂で、施餓鬼供養の「米と水の振りまき」を行っています。
昭和幼稚園では仏像を拝ませるなどといったことは行っていません。寿量院というお寺が母体となった幼稚園であると知らない保護者の方も多いのではないでしょうか。仏像を拝ませるよりも、命の大切さ、人間も人間以外の生命も関連し合って生きていて、それらを互いに尊重し合う、という精神を育んでいくことが大切だと考えています。それを日常の生活、保育の中で行う大切さを考えていきたいと思っています。

激しい雨の朝

園庭にはたくさんの<水溜り>やいく筋もの<川>ができています。
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園児が登園してきました。
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<水溜り>に足を入れ感触を確かめている園児
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友達がそこに集まります。
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なにやら話ています。
しばらくして他の<水溜り>の探索に行きました。
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赤いカッパの園児、<水溜り>の感触を確かめています。
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すぐ後ろの青のカッパの園児は興味がないのか<水溜り>は素通り
その後ろの桃色のカッパの園児は<水溜り>に足を入れて
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赤のカッパの園児は戻ってきてまた<水溜り>に足を入れ
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後の園児たちと一緒の感触を確かめています。
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大人たちにはうっとおしい雨の朝ですが、園児たちはいつもと違う状況に興味を示しています。
雨も<教材>です。そして<時間割>などという形式ばった学習形態からは得られない貴重な経験を積んでいます。

子供達は<水溜り>が好きですね!
なぜでしょうか?
<水溜たまりにチャピ、チャピ!>をご覧ください。
プロフィール

m.k.masa

Author:m.k.masa
諸々の事柄に、なぜ?、どうして?という感覚をも持ち続けたい幼稚園園長です。
京大理学部卒、大学院修了
(うさぎ年です)

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