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悲しい事件

散歩中の保育園児の信号待ちの列に衝突した車が突っ込み園児が亡くなりました。
またスクールバスを待つ小学校の生徒の列に刃物を持った男が襲いかかり、小学生と保護者の方が亡くなりました。
いずれも大変痛ましい事件で被害に遭われた方の無念さ、関係者の方の悲しみ、無念さには想像を絶するものがあります。
その場に居合わせなかった我々にも衝撃で、悲しみをどうすることもできない悔やむ気持ちでいっぱいです。

日本国内から世界に目を向ければ、学校内での銃の乱射、宗教を装う無差別テロなど無防備な人々が巻き添いになる事件が頻発しています。

人個人の問題、社会的な存在としての人、様々な要因で事件が発生し、後を絶ちません。
これらの事件を防ぐ方法として、対処療法的な対策、道路と歩道に防止柵を設ける、警察などによるパトロール、検問、・・・等が必要となりますが、並行して根元的な問題を提起しなければならないでしょう。

例えば、車社会の便利さに潜む危険性。車社会を根元的に見直す必要性もあるのではないでしょうか。ひいては何気なく私たちがどっぷりと浸かっている<便利さ>。<便利さ>を疑って見る必要性もあるのでは。24時間営業のコンビニの<便利さ>などなど。

無差別的なテロに対する根元的な問題とは?
人間や社会に対して何気ないことにも意識してみることでしょうか。差別とは何か、何が差別を引き起こすのか。なぜこんな格差のある社会になってしまうのか。なぜこんな社会に対して無為無策な<アホの極み>みたいな政治家を選んでしまうのか。・・・・・

屈託のない無邪気な子ども達が、突然降りかかってくる理不尽な危険な状況などのない社会で生きていてと願うばかりです。
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そして子ども達ばかりでなく大人も。

テレビ等の報道を見てちょっと思うことがあります。
事故現場に哀悼の意を込めて多くの方々が花束や品々を持参して被害者に手向けています。
形のある物を捧げることで気持ちをを伝えるという行為を否定するつもりはありませんが、現実の問題として手向けられた品々はその後どのようになるのでしょうか。
記帳台等を置いて、そこに気持ちを伝える方法もあるのではないでしょうか。

親しかった方が亡くなり、遺族の方から墓地を教えていただき墓参をしました。花束を用意し墓参しようと思っていたら、遺族の方から、墓には花等を手向けないでほしいと言われました。管理者が毎日管理できる墓所ではないので周りに迷惑がかかるからということでした。墓に手を合わせ気持ちを伝えて参りました。少々寂しくもありましたが、気持ちを伝えることができ、物を手向なくてもよかったと思いました。

施餓鬼ー<命あるもの>に関連して

盆の頃、寺院では施餓鬼の法要が行われます。
盆には盆という言葉の由来となった<盂蘭盆経(餓鬼の世界に落ちた仏弟子、目連の母を救う話)>や餓鬼を救う話<救面然餓鬼陀羅尼神呪経>や<先祖供養、特に先祖がこの世に帰ってくる>などが混じり合い、なにやら混沌とした風習になっています。

しかし、ほとんどの日本人は<先祖がこの期間この世に帰ってくる>という風習として捉えているのでないでしょうか。
<迎え火>を焚いてお迎えをし、<送り火>を焚いてお送りする。送り火の代表的なものが京都の大文字をはじめとする五山送り火でしょう。

<救面然餓鬼陀羅尼神呪経>とそれに基づく施餓鬼の法要は命に思いをはせるいい機会である私は思います。
目連の母の話や先祖供養や先祖が帰ってくるなどと切り離して、<施餓鬼>単独で行った方が良いと思うのです。

<救面然餓鬼陀羅尼神呪経>とはこんなお話です。

阿難というお釈迦様の弟子がいました。真夜中、修行中の阿難のところに餓鬼があらわれました。餓鬼の様子は、息も絶え絶え、痩せ細り、喉は針の如く細く、髪は乱れ、手足の爪は伸びて、炎に包まれていました。そして阿難にこう告げました。

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「おまえは、三日後命が尽きて、餓鬼の中に生ずるだろう。」
阿難は恐れ驚いて、餓鬼に尋ねました。
 「三日後に死んで、餓鬼に生まれ変わるのは恐ろしい。どうすれば、いいのでしょう。」
餓鬼が答えました。
 「我々餓鬼はガンジス河の河原の砂の数ほど無数にいる。我々はいろいろな苦しみの中にいる。見ての通り、喉が針のように細く、飲んだり食べたりできないのが特に苦しい。我々に腹一杯飲んだり食べたりさせてくれ。そうすれば我々餓鬼も救われ、お前も死なずにすむ。」
 これを聞いて、無数の餓鬼に腹一杯飲んだり食べたりさせることはとても出来るわけではなく、阿難はますます恐怖の底に突き落とされました。そしてお釈迦様の処に行って、今起こった一部始終を述べ、助けを求めました。お釈迦様は阿難の恐怖と苦しみを察し、こう教え諭しました。
 「阿難よ、安心するがよい。私が前世の時、観音菩薩から『おまじない』を教えてもらった。この『おまじない』を唱えると、ほんの僅かな食物が無数の量に増え、また味も格別のものになる。この『おまじない』をお前に教えるから覚えなさい。そして用意出来るだけの食べ物を持ち、諸々の仏達に餓鬼を救うお願いをし、『おまじない』を唱えなさい。そうすれば無数の餓鬼であろうと、腹一杯飲んだり食べたりでき、餓鬼の状態から救われる。そしてお前も死んで餓鬼にならずにすむ。」

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 お釈迦様から教えられたように、阿難は行ないました。餓鬼達は救われ、阿難も救われました。

<施餓鬼>の供養では

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棚を設け、そこに米や水などや諸々の食物を並べます。施餓鬼供養で読むお経は、餓鬼を救い、棚に並べた食物を無限に増やす、・・・といった内容です。参加者は棚に設けられた米と水(諸々の食物の代表として)を振りまきます。この行為は、参加者お一人お一人がそれぞれ、餓鬼に食物、水を施して、哀れな存在である餓鬼を救っていることを意味します。

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餓鬼とはなんでしょうか? 
「生命あるもの」は死後、生き様によって六つの世界[地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天]に生まれ変わると考えられていました。地獄とならんで餓鬼は良い世界ではありません。人間としての生命を終えた時、私達は何らかの形式で亡き人を死後安心できる世界へ行けるようにお願いしているはずです(宗教の違いにかかわらず、また宗教にこだわらず、一般的な言い方で言えば、「天国」)。日本では亡き人のほとんどは何らかの形式で送られているので、死後「餓鬼や地獄」などの世界とは縁がないはずです。しかし不幸なことに、孤独死などという事例や、世界に目をむければ、戦争、紛争、飢餓などで命を落とし、まともに死を弔ってもらわなかった人々が多くいます。ある意味では、それらの方々が「餓鬼」という存在かもしれません。

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私達は一人で生きているわけではありません。思いめぐらせてみれば、食べ物一つとっても、世界の何処かの見も知らぬ人々が生産し、運送し、加工し・・の結果、口にすることが出来るのです。広く世界中に、このような繋がりが広がっています。思いを巡らせば、「餓鬼」は私達と無縁な存在ではないでしょう。

また人間だけの世界にとどまらす、「生命あるもの」全てに拡大したらどうでしょうか。食物連鎖のことを考えてみれば、人間は他の生命を頂いて生きているのです。人間以外の生命が命を終える時、まともに弔らわれているのでしょうか。ほとんどはそうではありませんね。それらの存在も「餓鬼」といえるかもしれません。

「施餓鬼の供養」ということを通して、命を落とした際に、その「命の尊さ」を弔われなかった存在(人、人以外の生命あるもの)に思いをめぐらせる機会だと思います。そして人間を含めた全ての「生命あるもの」に対して、その尊厳に気づくことにつながると思います。
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年長児にはそんな意識のきっかけになればと、毎年本堂で、施餓鬼供養の「米と水の振りまき」を行っています。
昭和幼稚園では仏像を拝ませるなどといったことは行っていません。寿量院というお寺が母体となった幼稚園であると知らない保護者の方も多いのではないでしょうか。仏像を拝ませるよりも、命の大切さ、人間も人間以外の生命も関連し合って生きていて、それらを互いに尊重し合う、という精神を育んでいくことが大切だと考えています。それを日常の生活、保育の中で行う大切さを考えていきたいと思っています。

はだかの王さまー大人の愚かさ、子どもの実直さ

アンデルセンの童話「はだかの王さま」
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おしゃれで新しい服が大好きな王さまがいました。
王さまの国に二人の詐欺師の男が<特別な布を織り、服を仕立てる職人>という触れ込みでやって来ました。
この男達の作る布は「自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人には透明で見えない特別な布」という触れ込みでした。国中でその布のことが持ち切りになっていました。

新しい服が大好きな王さまは大変関心を示し、
「その布で出来た服をわしが着れば、家来の中から<役立たず>や<バカ>を見つけられるだろう。その服が見える者だけを集めれば国のためにもなる」
その男達にお金を渡し、布のを織らせ、服を作るように命じました。
男達は布を織るふり、服を作るふりをしているだけで、実際にはなにもありません。

新しい服の作業が気になる王さまは家来を視察に行かせるのですが、
「何も見えない」とは、<役立たず>で<バカ>な者であるとなるので、王さまには「順調に仕事が進んでいます。すばらしい布です。・・・」報告しました。

服が完成したとのことで二人の詐欺師が王さまに服を持って来ました。王さまにも服が見えません。しかし<見えない>とは自分が<王さまにふさわしくなく>、<バカ>であることになってしまうので、「すばらしい!」と思い、この服を着て町に出で、お披露目のパレードすることになりました。

集まった国民も<役立たず><バカ>と思われないよう、見えてもいない<服>に身をまとった王さまを歓呼して服を褒めそやします。
そんな中一人の子どもが「王さまは裸だよ!」と王さまに向かって言いました。
その声に大人達も気付き、「王さまは裸だ!」と叫ぶようになっていきました。
王さまも自分が裸であることに気付きましたが、いまさらパレードを止めるわけにもいかず、今まで以上にもったいぶって歩きました。

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アンデルセンが子どもに「王さまは裸だよ!」と言わせていることに、大人社会への大きな皮肉が込められていますね。
子どもは自分の感覚で感じ取ったことをストレートに言い表わしていますね。言葉だけでなく他の表現方法でも然り、のことがいっぱいあります。

大人とは、立場、しがらみ、社会規範、などにとらわれ、自分の感覚に忠実ではなくなっていますね。
大人の言っていることには<うそ>がいっぱい。
特に社会的に大きな影響を持つ大人達の<うそ>、この世の中にいっぱい溢れていますね。

大人に拍手!

柵を設けて、柵を越えないように伝えました。
門にトラックが止まり、制服姿おじさん達が現れると、何事が始まるのか?興味津々で柵の近くに集まって来ます。
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電子オルガン(エレクトーン)をおじさん達が担いで移動する姿に見とれています。
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おじさん達が担ぎ終わり、トラックのリフトに荷物を下ろすと、子ども達から拍手が沸き起こりました。
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リフトに載った荷物が上に上がり、トラックの荷台に納まるまで見届けます。
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見慣れない光景に興味がいっぱい。力持ちのおじさん達やトラックのリフトに感激したようです。
大人にとっては見慣れた光景で興味も涌かないこと、しかし子どもにとっては今までに見たことも無い新鮮な光景。
<慣れ>は一面では<成長>、別の面では<退化>
年齢が長ずるに従い、<成長>と<退化>を重ねていくのですね。

この世界の、人間の不可解さ

ここ数ヶ月の間だけでもフランスで、アメリカで、バングラデシュで、ドイツで、そして日本で、テロ、大量殺人事件が発生しています。不幸にして亡くなられた方々にお悔やみ申し上げます。またご親族、関係者の皆様、無念のお気持ち、いかばかりかと拝察申し上げます。

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イスラム過激派の影響とか、人種差別とか、政治、経済上の格差、人間観の差別・・等々いろいろと取りざたされていますが、それらは表層上のことで、人間及び人間社会のもっている意識(あるいは無意識)の問題があると思えてなりません。
善悪、正誤、優劣、・・・といった二項対立の考え方が根底に横たわっているようです。そしてこの二項対立の根底が、なしかしら絶対化されているように思えてなりません。
曰く、「我々の主義は正しい」「我々は虐げられている」「このような人種は存在価値がない」・・・・
根底となることを絶対化しなかったら、善悪、正誤等も変わってくるでしょう。

政治的、経済的な格差をなくす、宗教間の差別化をなくす、人間観の差別意識をなくす・・・等々努力することは必要でしょう。しかし、「・・・なくす」という言葉に示されるように、意識してかあるいは無意識に「格差がある」ということが前提となっています。そしてそれが絶対化されているようです。だから根本的な解決には至らない。

立場を替えてみる、等、相対化してみることはできないのでしょうか。
「相手方の主義にたてば、どうか?」「虐げる根拠は?」・・・脱却できる可能性があります。
しかしなかなかできません。
それは意識下しているからでしょう。
意識下せずに行う、それは困難なことでしょう。

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仏典の<金剛般若経>では意識下ぜず行うことの大切さを、クドクドと述べています。
経の最後の部分で
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それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ。
現象界というものは、
星や、目の翳(かげ)、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡(うたたか)や、夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。
・・・・・・・・・
(岩波文庫「般若心経 金剛般若経」中村元、紀野一儀 訳注)
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このような境地を目指すことが、「この世界の、人間の不可解さ」から脱却する方法の一つに思えます。
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m.k.masa

Author:m.k.masa
諸々の事柄に、なぜ?、どうして?という感覚をも持ち続けたい幼稚園園長です。
京大理学部卒、大学院修了
(うさぎ年です)

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