毎年初夏に<ひまわり>や<あさがお>の種を植えます。

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発芽し、双葉が出て、本葉が出、成長し、花が咲き、最後には枯れてしまいます。

種を植えた花壇やプランターに文字で<ひまわり>とか<あさがお>とか書いた標識を立てるのが一般的でしょう。
しかし、幼児にとってふさわしい標識でしょうか。

<シニフィエ>(記号内容、意味されるもの)と<シニフィアン>(記号表現、意味するもの)がセットとなって記号として機能するものです。

例えば、記号<ひまわり>
 <シニフィエ>・・成長し、大きな黄色の花が咲く・・・
 <シニフィアン>・・ひらがなで書けば<ひまわり>、漢字で書けば<向日葵>、発音すれば<himawari>・・・

幼児期の子どもにとってこのどちらも未知かあるいは不確でしょう。

成長に注目させ、<シニフィエ>、<シニフィアン>を定着させるように、花壇やプランターにこんな標識をつけています。
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成長の過程にそって、標識の絵柄も変化していきます。現在の成長の状態よりちょっと先の状態の絵柄にしていきます。
実際の状態から「こんどはどうなるのだろう?」と関心が生まれます。

成長の過程に注目し<シニフィエ>が記憶されていきます。その際<himawari>と聞いたり、口に出し発音すれば、記号<ひまわり>が形成されていきます。文字化はもっと後でもいいでしょう。

大人と子どもはいろいろな面で異なります。
とりわけ、文字や記号に慣れっこになっている大人とは異なることを意識してみる必要があります。

<昭和幼稚園のHPへもお越し下さい>
今年も帽子のデザインを行いました。

帽子のてっぺんに描かれる模様で、年少組、年中組、年長組とわかるような「約束」になっています。

「帽子屋さん」風に並べてみました。
帽子-5

上の列は「年長」です。顔の絵が描かれています。色の違いが「クラス」を示しています。
左から黄色=ほし組、青=つき組、赤=ゆき組

中段の列は「年中」です。3本の線の交差が描かれています。色の違いが「クラス」を示しています。
黄色=うめ組、赤=たけ組

下段の列は「年少」です。大きな丸が描かれています。同様に色の違いが「クラス」を示しています。
赤=もも組。青=すみれ組、黄色=ふじ組

帽子のツバの模様はそれぞれです。

この帽子のデザインが組を示す、ということは「昭和幼稚園」だけの約束ですね。
そんな約束を知らない者にとっては、「きれいな帽子だね!」「いろいろな模様があるな!」といった感想でしょう。

このことが記号の重要なことです。単なる「約束ごと」にすぎません。「約束ごと」が適用される範囲「集団」があり、それ以外のところでは、なんら「意味」をもちません。

記号と事象との対応はこのように単なる「約束」です。そしてその適用される「範囲」も限定的なことです。

クラスを示す記号として、帽子のデザインを示しましたが、上の文章でも出ているように、「つき組」とか「もも組」とかいった言葉としての記号もあります。
記号と対象とは常に1対1の関係にあるわけではありません。


言語学者ソシュールの言わんとしている記号の内容を端的にこの帽子のデザインが示しているように思われます。

この「帽子屋さん」風の展示をお終いにして、年長児に各クラスに配ってもらいました。「これは◯◯組」とか言いながら、間違いなく配ってくれました。

年長児はソシュール流の記号や言葉についての基礎的なことがわかっているのですね。

やたらと抽象的な「言葉」などを無闇に子どもに注入するようなことよりも、こんな基礎的な<記号や言葉の概念>を日常生活において使うように配慮するほうが、遥かに「知的」で将来の言語や記号を使う生活にとって、有効で「生産的な」活動だと思いませんか。

さて以下の写真からクラスを当てて下さい!
帽子−1

帽子-2

帽子-3

帽子-4

帽子-6

帽子-7

こども達はてっぺんに描かれた模様と帽子のツバに描かれた模様から自分の帽子を選び取っています。それぞれの個人にとってツバの模様も記号なのですね。その記号はその個人にのみ適用されるものですが。

<帽子のデザインからー記号・言葉と内容>もご覧下さい。

<昭和幼稚園のHPへもお越し下さい>
有名ホテルのレストランで食材の内容、産地などの偽装が明るみになりニュースで話題になっていますね。
偽装は数年前からあったようです。味覚だけではそれらの偽装はバレなかった、ということです。
それだけ、味覚は曖昧な感覚かもしれません。

輸入の赤身の牛肉と上等な和牛の霜降り肉は味覚で区別できるでしょうが、
松坂牛と神戸牛と米澤牛を舌だけで区別できる人はいるのでしょうか?

メニューや食材のレッテルに記されている「◯◯」という文字表示に頼っているのですね。
味覚が主でなく、文字から判断される情報に味覚を従わせているのですね。
「◯◯だから美味しい」「△△だからこんな程度か」なんてね。

だから騙そうと思えば、いくらでも騙せるのです。
新聞によく注意を向ければ、食材の産地偽装、内容の偽装など日々頻繁にあるようです。

この事件は「文字=記号」というものの本質をかいま見せています。
文字=記号は「意味するもの」、「意味されるもの」の両面をもっていて、それは単なる社会の約束事でしかない、現実の実体とは本質的には結びついてはいない云々。
単なる文字情報としては「約束事」でしかない「◯◯産」を
ホテル側(騙す方は)単なる文字だけよ、でもきっと客(読む方)は実際の産地のものと受け取るだろう・・

文字などの記号の影響をそれほど受けていない幼児や子どもだったら
メニューに「◯◯産の〜」と書かれていても、なんのこっちゃかわからないわけで、自分の味覚で判断して
「おいしい〜!」とか「まずい〜!」とかになるでしょうね。
味覚も成長とともに変化していきます。また社会的な影響を受けていきます。
子どもに豊かな味覚の世界へ導いて行くことの大切さを感じます。
高価な食材ではなく、地産地消に代表されるような、身近な、生産、調理の手順がはっきりとしているようなもので!

お母さん方、よろしくお願いします。
ミュニケーションを成り立たせるためには、言葉がないとできませんね。
前回や前々回に書いてきたように、言葉には地域、国等の社会集団によってズレがあります。個人間でもズレがあるでしょう。
言葉に思いを巡らせるとキリがありません。
つぼみ

今年に入ってたまたま本屋で<「言葉とは何か」丸山圭三郎(ちくま学芸文庫)>が目に入りました。ソシュールの言語観をベースにしたもので、ここのカテゴリー<ことば・文字・記号>を整理する意味でも大変参考になりました。

言葉は物や概念に付けられたレッテルではない。人間の意識外に物や概念が存在するのではなく、逆に人間が意識し、言葉というもので物や概念を作り出しているのですね。
そして、それらの物や概念などは互いに「独立」しているのではなく、他との関連で成り立っているものなんですね。(色の「赤」でもなく「黄色」でもないから「橙」というのをつくりだす、なんてことかな)

このカテゴリーの中の<落葉の色は?><帽子のデザインから−記号・言葉と内容>はまさにこんなソシュール流の方法だったんだと思うに至ります。ソシュール流に「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」とか使えば、かっこ良かったな。(この意味するもの、意味されるもの、かつては能記、所記とか書かれ、学生時代に読まされた文献では全くなんのことかチンプンカンプンだったことを思い出します)
葉っぱ

物事に言葉のレッテルを貼るというような言語教育ではなく、(ソシュールが見抜いたような)言葉のシステムを構築することが言語教育が基礎なのでしょう。そこには全世界で共通なシステムではなく、地域、社会階層、・・・個人のレベル・・いろいろなレベルで差があるシステムなのでしょう。
幼児期こそ、言語の基礎ができつつある時期です。「言葉のレッテル」を貼ってお終いではなく、
色々な場面で、習得している言葉を使い、それが適用でない場合に遭遇したら、新しい言葉を獲得し、または作り出し・・・といったことの連続(言葉のシステムの構築)を子ども達と一緒に行おうではありませんか。

<昭和幼稚園のHPにもお越し下さい>
前回は日本語と英語など外国語とで感ずる「モヤモヤ」感を書きましたが、
同じ日本語でも、話す相手や地域が異なると、そんな「モヤモヤ」感や「差」を感じます。
生まれ育った処から、ほとんど出ずに生活していると、そんな感覚はあまり生じないかもしれません。
同じような生活、風習、つまり同じ「文化」にいるからなのでしょう。

受験した大学に全て不合格となり、東京で下宿し予備校生活を送るようになりました。
初めての夜、近くの食堂に夕食に行きました。
生まれ育った浜松で食べていたうどん、「にかけ」を注文しました。
店員さんが「それなに?」と聞くではないですか。
「油揚げとネギが入っているうどん」と答えると
店員さんは「きつね、ね」
東京ではそんな名前なのかな、と思い「それお願いします」
さて出てきたうどんには、大きな甘辛く煮た油揚げが<ど〜ん>と載っているではありませんか。
「にかけ」とは全く異なるものです。
「にかけ」は、だし汁と一緒に煮た細かく刻んだ油揚げとねぎが入っているものです。
多分名古屋文化圏の「きしめん」のトッピングに似たようなものです。

慣れ親しんだ「味」とはほど遠いもので、
最初の1日目で、言葉が通じない、味も通じない、心寂しく感じたものです。

1年後、京都で生活するようになりました。
当たり前のことですが、周り全てが、関西弁。早口でしゃべられると、なにを言っているのかもわかりません。
大学での最初の授業が数学でした。関西弁なんですね。
関西弁は漫才やお笑い系でしか聞いていなかったから、大学の授業でも関西弁にはびっくり。
関西人がしゃべって講義をするのですから、関西弁は当たり前なんですが、そんな感覚ありませんでした。

大変な所に来てしまった、と思ったものです。

そんな頃、京都から山陰線に乗って日本海側に旅行に出かけました。
桂川に沿って列車は進んでいきます。太陽が出でいる方向、大まかに言えば、南に向かって川の水は流れています。
それがしばらくすると、川の水が北の方向に流れているではありませんか!(分水嶺を過ぎたのです。)
これにはびっくり!
太平洋側に住んでいる人間にとって、川は南に流れるもの。それを疑うこともありません。無意識のうちに川という言葉と一体になっていました。地図で見れば、南に流れる川ばかりでないことは、分っているつもりですが。実際に自分の目で見るまでは、そんな感覚ありませんでした。

こんなカルチャーショックのような体験が、約40年経ても消えません。
言葉って不思議に思うことがいっぱいです。

日本国内だけでなく、海外との交流が増々頻繁になる時代です。
子ども達も、どんどん<カルチャーショック>を受けてもらいたいものです。
<カルチャーショック>を受けるのは、その根底にあるものがなければなりません。
生まれ育った所の文化です。言葉、風習、・・・。
そして<カルチャーショック>を受けて、生まれ育った所の文化と他の文化を相対化して欲しいのです。
プロフィール

m.k.masa

Author:m.k.masa
諸々の事柄に、なぜ?、どうして?という感覚をも持ち続けたい幼稚園園長です。
京大理学部卒、大学院修了
(うさぎ年です)

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