学校等でいろいろな箏を学んでいます。

雲−1

学校教育は効率的に学べるように工夫されています。
近世以降学校が制度化され、集団で学ぶことが個人的な学びにつながるようになってきました。
(学校制度が整備される以前では王侯貴族が個人教授で受けて得られたことが一般庶民でも得られるようになってきました。)

こうして学校教育での集団的な場で得られた知識、技能、等はどのように定着しているのでしょうか?

たくさんのことを学んだはずです。
しかし、授業で学んだすぐその後、また試験が終わったら、忘却のかなたに行ってしまったこともたくさんあるのでないでしょうか。

算数や数学上の知識、技能では、四則演算(足し算、引き算、かけ算、割り算)これはほとんどの人にとって忘れていないことでしょう。しかし2次方程式の解法や微分積分などは多くの人が忘れてしまっているでしょう。

文字ではどうでしょうか。ひらがな、カタカナ、は忘れていませんね。漢字ではどうでしょう。忘れない漢字もあれば、忘れ去った漢字もあるでしょう。

英語ではどうでしょうか。多くの日本人は英語がダメで話せない!などといわれています。

四則演算は買物などで毎日生活上で使用しています。ひらがな、カタカナ、一部の漢字なども毎日の生活上で使っています。毎日の生活上で使用しているから、忘れない、自由に操れるわけです。

2次方程式の解法、微分積分などやもっと高度な数学的な方法を自由に(一般人が四則演算を使うように)使っている人々もいます。それらの人にとっては、仕事などの場面でなくてはならないものだからでしょう。

英語でも同様、毎日の生活に必要な場面で使う必要にあれば、忘れることもなくなるでしょう。日本語だけでほとんどのことがすますことができる現在の日本の状況では、英語を使う必然性がないわけです。生活に必要のない微分積分を忘れてしまっているのと同じこと。(微分積分ができないといって嘆く人は少ないのに、英語ができないといって嘆く人の多いことよ!)

学校等で得た知識や技能を忘れないで自由に操って行くには、それらを使う必然性があることですね。
集団学習で習っても、知識や技能を使う必然性は、個人の領域に属しているように思います。学校教育では<時間割>などで教科カリキュラムが行われ、知識や技能の<習得の手ほどき>はしてくれますが、それらの使用の必然性は基本的に<範囲外>です。

幼児教育でも同様、得た知識や技能、それらを使う必然性が大切です。<時間割に基づくような教科カリキュラム>に精を出して、必然性を作り出していないことが多いのでは?
極端な例かもしれませんが、「子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。・・・」などの孔子の論語を覚えさせたりするところがあるように聞いたことがあります。これらは幼児にとって必然性があるのでしょうか。

ごっこ

得た知識や技能を自ら周りの世界に適用してみる、そんな時間が大切でしょう。適用する世界は子ども子どもで同じである必要はなく、個々に異なっていることの方が<自然でしょう>
<時間割>や一斉の集団保育だけではない、個々の子どもの意欲を引き出す保育環境、保育者の働きかけが大切になってくるのです。

はがき

この子は習得した技法でお母さんの絵を描いている。別の子は空想の世界を描きはじめた、また別の子はおもちゃの包み紙のデザインを始めた・・・
こんな光景がいっぱい見られる幼稚園でありたいと願っています。

<昭和幼稚園のHPへもお越し下さい>
プロフィール

m.k.masa

Author:m.k.masa
諸々の事柄に、なぜ?、どうして?という感覚をも持ち続けたい幼稚園園長です。
京大理学部卒、大学院修了
(うさぎ年です)

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