伝達方法、制約
リストがベートーベンの9つの交響曲を全て1台のピアノでの演奏に編曲しています。
どんなものだろうか?と2組のものを買って聞いています。
リストの時代の頃のピアノを使った演奏。リストと同時代の人々はこんな風に聴いていただだろうか。

現代のピアノを使った演奏では

ピアノを弾けるわけでもなく、楽譜ももう読めなくなってしまっているので、聴いた感想でしかありませんが、オーケストラで聴くものと全体の音楽は同じ。ベートーベンがそこにいるのと変わらない。
しかしピアノだけでの制約がありますね。オーケストラではもっとダイナミックに鳴っている、音色の変化があり、・・・・
それにしてもピアノだけでベートーベンの交響曲を全て伝えられることの凄さ!
なぜリストはこんな高度な編曲を行ったのでしょうか?
解説本など見ていないので、私の感想です。
リストの時代、オーケストラがある都市の人しか聴けなっかたでしょう。
オーケストラが根拠地を離れて演奏旅行をすることも稀だったでしょう。
ごく限られた人しか聴く機会がなかったことでしょう。
オーケストラの存在しない<田舎>の住人はオーケストラのある都市に出かけるしかなかったのでしょう。
音楽の知識があれば、出版されている楽譜を手に入れればなんとなく想像はできたでしょうが。
そこでオーケストラとはいかないまでも、ピアノ1台あれば<田舎>でも直接音として聴く機会がもてる、こんなことがきっかけの一つになっているのでしょうね、きっと。
音楽の伝達、リストの時代はテレビ、ラジオ等の放送、CDをはじめとする音楽録音媒体、インターネットなどがあるわけでなく、演奏者と聴衆は同じ場所で同時刻で共有していなければ成立しませんでした。
現在は、同じ場所で同時刻というライブ演奏会、それ以外にライブ演奏を再現する手段が多々あります。私たちはライブ演奏を直接体験するよりも、再現される演奏で多くの音楽体験をしていますね。ライブ演奏を再現する技術的な発展は目を見張るものがあります。
過去に遡れば伝達の手段はいろいろな制約を受けています。
楽譜として出版する。リストはピアノに編曲する・・・・・
制約はマイナスばかりではないでしょう。
100%コピーできないのだから、そこに取捨選択、本質を際立たせるためのデフォルメも含めた変容・・・・・
そんなことがあるから元のものとは別な意味合いを持って迫ってくるのでしょう。
あるオーデオ評論家がレコード再生を<レコード演奏家>と称していたのもこんなことに関係しているのでしょうね。
私たちは直接体験する以外に、間接ですが、直接体験とほとんど変わらない体験を、場所と時間にとらわれずに受けるようになってきています。受ける身にとって、はたしていいことなのでしょうか?
そこに疑問を感じてしまいます。
直接体験と擬似体験が差がないものとなったら、感覚はどうなってしまうのだろう?
本質を見極めるための取捨選択、などの工夫などの思考の働きは?
便利すぎていい世の中!なんて、実は人間を否定するような悪い世の中!と思ってしまいます。
子ども達には、適度に<不便な>環境が必要と思ってしまいます。
どんなものだろうか?と2組のものを買って聞いています。
リストの時代の頃のピアノを使った演奏。リストと同時代の人々はこんな風に聴いていただだろうか。

現代のピアノを使った演奏では

ピアノを弾けるわけでもなく、楽譜ももう読めなくなってしまっているので、聴いた感想でしかありませんが、オーケストラで聴くものと全体の音楽は同じ。ベートーベンがそこにいるのと変わらない。
しかしピアノだけでの制約がありますね。オーケストラではもっとダイナミックに鳴っている、音色の変化があり、・・・・
それにしてもピアノだけでベートーベンの交響曲を全て伝えられることの凄さ!
なぜリストはこんな高度な編曲を行ったのでしょうか?
解説本など見ていないので、私の感想です。
リストの時代、オーケストラがある都市の人しか聴けなっかたでしょう。
オーケストラが根拠地を離れて演奏旅行をすることも稀だったでしょう。
ごく限られた人しか聴く機会がなかったことでしょう。
オーケストラの存在しない<田舎>の住人はオーケストラのある都市に出かけるしかなかったのでしょう。
音楽の知識があれば、出版されている楽譜を手に入れればなんとなく想像はできたでしょうが。
そこでオーケストラとはいかないまでも、ピアノ1台あれば<田舎>でも直接音として聴く機会がもてる、こんなことがきっかけの一つになっているのでしょうね、きっと。
音楽の伝達、リストの時代はテレビ、ラジオ等の放送、CDをはじめとする音楽録音媒体、インターネットなどがあるわけでなく、演奏者と聴衆は同じ場所で同時刻で共有していなければ成立しませんでした。
現在は、同じ場所で同時刻というライブ演奏会、それ以外にライブ演奏を再現する手段が多々あります。私たちはライブ演奏を直接体験するよりも、再現される演奏で多くの音楽体験をしていますね。ライブ演奏を再現する技術的な発展は目を見張るものがあります。
過去に遡れば伝達の手段はいろいろな制約を受けています。
楽譜として出版する。リストはピアノに編曲する・・・・・
制約はマイナスばかりではないでしょう。
100%コピーできないのだから、そこに取捨選択、本質を際立たせるためのデフォルメも含めた変容・・・・・
そんなことがあるから元のものとは別な意味合いを持って迫ってくるのでしょう。
あるオーデオ評論家がレコード再生を<レコード演奏家>と称していたのもこんなことに関係しているのでしょうね。
私たちは直接体験する以外に、間接ですが、直接体験とほとんど変わらない体験を、場所と時間にとらわれずに受けるようになってきています。受ける身にとって、はたしていいことなのでしょうか?
そこに疑問を感じてしまいます。
直接体験と擬似体験が差がないものとなったら、感覚はどうなってしまうのだろう?
本質を見極めるための取捨選択、などの工夫などの思考の働きは?
便利すぎていい世の中!なんて、実は人間を否定するような悪い世の中!と思ってしまいます。
子ども達には、適度に<不便な>環境が必要と思ってしまいます。