世界(自然界、精神界)を知る?!
高校時代、「まじめ」な小心者の生徒でしたから、授業中に別のことをしたり、「早弁」を食べたり、眠ったりできませんでした。だから退屈でも教科書を開いて(別のページを開いて)いました。

物理では、教科書の巻末に単位系のことが書いてありました。
<いくつかの基本の量を決め、全ての量を記述できる>といった内容だったと思います。
たったいくつかの量(物理的な基本単位は、長さ、質量、時間、温度、電流、光度、物質量)の組み合わせてで世界を記述できる?!
物理で観れば、世界ってこんなに<単純なのか!>
こんな感想を持ちました。
雑多に思えることをただ黙々と暗記することは苦手でしたから、暗記することの少なさは大変魅力的でした。
そして単純さが明瞭な世界観を与えてくれるように思えました。
たったいくつかの基本量で済むのか?はまだ思考範囲外のことだったようです。
だいぶたってから(30代半ばの頃かな)仏典の般若心経に目を追っていました。
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空 度一切苦厄。舎利子。・・・・・
[観自在菩薩(観音菩薩)は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。シャリープトラよ(舎利子=智慧第一といわれた仏陀の弟子)・・・](岩波文庫「般若心経 金剛般若経」より)
注釈によれば、<五蘊=五つの構成要素は色(物質的現象)と受想行識(精神作用)であって、それらによって一切の存在が構成されている。>
物理的に観た世界観と般若心経が説く世界観に共通するものがあるという思いに至りました。
世界を構成する基本的な要素は極わずかなものである。それらの組み合わせによってこの世界は構成されているのである。・・・・
それでは、この基本単位はどうして極わずか、なのか?
人間は感覚器官を通して外界と接しているのであり、
目、耳、舌、鼻、皮膚などの少数である身体の感覚器官を通して得られものを基として世界を解釈しているのです。所詮人間の思い描く世界は自分に備わった少数の感覚器官から得られるものに還元されるものでしょう。
それが、般若心経では五蘊として集約され、物理学的世界では基本単位として集約されているのです。
それぞれの解釈によって、<独立な>基本単位になったわけでしょう。

物理的な自然現象の<世界>も般若心経などが説く精神的な<世界>も、感覚器官から得られる感覚が基本だということになります。
これらの感覚がなければ<世界>を思い描くことは出来ないわけですし、また感覚が貧弱であれば思い描く<世界>も貧弱、・・・となっていきます。
人間の文明の発展により、直接感覚で得られるものに加えて間接的なものが増えてきました。
現代では直接的な感覚なしでも、バーチャルなことで済ますことが多くなっています。
小さい子どもでも、知らず知らずのうちにバーチャルな世界で済ましていることがありませんでしょうか?
特に就学前の年齢では、直接感覚を通して多くの体験を積んでもらいたいものです。
昭和幼稚園のHPへもお越し下さい。

物理では、教科書の巻末に単位系のことが書いてありました。
<いくつかの基本の量を決め、全ての量を記述できる>といった内容だったと思います。
たったいくつかの量(物理的な基本単位は、長さ、質量、時間、温度、電流、光度、物質量)の組み合わせてで世界を記述できる?!
物理で観れば、世界ってこんなに<単純なのか!>
こんな感想を持ちました。
雑多に思えることをただ黙々と暗記することは苦手でしたから、暗記することの少なさは大変魅力的でした。
そして単純さが明瞭な世界観を与えてくれるように思えました。
たったいくつかの基本量で済むのか?はまだ思考範囲外のことだったようです。
だいぶたってから(30代半ばの頃かな)仏典の般若心経に目を追っていました。
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空 度一切苦厄。舎利子。・・・・・
[観自在菩薩(観音菩薩)は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。シャリープトラよ(舎利子=智慧第一といわれた仏陀の弟子)・・・](岩波文庫「般若心経 金剛般若経」より)
注釈によれば、<五蘊=五つの構成要素は色(物質的現象)と受想行識(精神作用)であって、それらによって一切の存在が構成されている。>
物理的に観た世界観と般若心経が説く世界観に共通するものがあるという思いに至りました。
世界を構成する基本的な要素は極わずかなものである。それらの組み合わせによってこの世界は構成されているのである。・・・・
それでは、この基本単位はどうして極わずか、なのか?
人間は感覚器官を通して外界と接しているのであり、
目、耳、舌、鼻、皮膚などの少数である身体の感覚器官を通して得られものを基として世界を解釈しているのです。所詮人間の思い描く世界は自分に備わった少数の感覚器官から得られるものに還元されるものでしょう。
それが、般若心経では五蘊として集約され、物理学的世界では基本単位として集約されているのです。
それぞれの解釈によって、<独立な>基本単位になったわけでしょう。

物理的な自然現象の<世界>も般若心経などが説く精神的な<世界>も、感覚器官から得られる感覚が基本だということになります。
これらの感覚がなければ<世界>を思い描くことは出来ないわけですし、また感覚が貧弱であれば思い描く<世界>も貧弱、・・・となっていきます。
人間の文明の発展により、直接感覚で得られるものに加えて間接的なものが増えてきました。
現代では直接的な感覚なしでも、バーチャルなことで済ますことが多くなっています。
小さい子どもでも、知らず知らずのうちにバーチャルな世界で済ましていることがありませんでしょうか?
特に就学前の年齢では、直接感覚を通して多くの体験を積んでもらいたいものです。
昭和幼稚園のHPへもお越し下さい。